[特集2]“勝てる脳”のきたえ方 ―スポーツ上達のための「心」と「技」に迫る―
NTT研究所では、コミュニケーション科学基礎研究所、物性科学基礎研究所を中心に、「潜在的な脳の働き」を解き明かす脳科学の知見と最先端の情報通信技術を活用した、新しいスポーツ上達支援法を開発する研究「Sports Brain Science Project(スポーツ脳科学プロジェクト)」が進められています。プロジェクトの背景、目指すゴールについて、プロジェクトリーダーである柏野牧夫氏に聞きました。

スポーツ上達のため「心」と「技」に迫る

—「Sports Brain Science Project」とは、どのような研究なのでしょうか?
  スポーツで不可欠とされる「心・技・体」は本来一つのもので切り離せません。一般には、スポーツ選手がパフォーマンスを高めたり、試合で勝とうとしたりするためには、「身体を強くする」(体)、つまり筋肉をきたえたり、心肺機能を高めたりしなければならない、と考えられています。それはもちろんとても重要なことですが、我々の研究の目的はそこにはありません。我々は、人間が持てる力を最大限に発揮するために、「精神状態をいかにうまくコントロールするか」(心)、あるいは「身体をいかに最適に操るか」(技)、というところに主眼を置いて研究をしています。

—なぜ、「心」と「技」に着目されたのですか?
  ご存知のように、「体」の領域では、運動生理学に基づく効率的なトレーニング法が活用されています。ところが、「心」や「技」の領域では、科学的知見に基づく体系的なトレーニング法は確立されていません。そうした中、私たちは、ウェアラブルセンサやヴァーチャル・リアリティ、機械学習といった、最先端の情報通信技術(ICT)を使って、新しい「心」や「技」のトレーニング法を見出そうとしています。なお、「心」や「技」というのは、脳が司っている部分が非常に大きいため、「認知脳科学」や「認知神経科学」という脳科学の分野のターゲットとなります。

無自覚で自動的な動きや潜在能力を探求したい

—今回の研究のキーワードを教えてください。
  「潜在脳機能」です。潜在というのは、「自覚されない活動」のこと。潜在の逆は「顕在」で、こちらは意識の中に昇ってくるもの、言葉のように論理的に操作できたり、明確な知識として認識できたりするもののことを言います。もともと我々はここ10年くらい、潜在脳機能をキーワードに一連の研究を行ってきました。日常の活動の中で、私たちがモノを見たり、聴いたり、身体を動かしたりする際に、自覚できない潜在脳機能のプロセスが非常に重要な役割を果たしています。スポーツの世界でも、意識できる顕在よりも、意識されない潜在のほうがはるかに大きな割合を占めていると考えられます。 

  そして、我々はこの「潜在」という言葉をダブルミーニングで使っています。一つ目は、本人が意識できない、無自覚で自動的な動きや反応です。球技や格闘技などの場合、トップレベルともなると、意識して、決断して、それから動いたのでは絶対に間に合いません。脳は、非常に短い時間の中で、十分な情報を得られないまま、最適な判断を下さなければならないということです。これは脳科学にとって、非常に興味深いテーマといえます。 

  二つ目は、いわゆる「潜在能力」と呼ばれるものです。要するに、その人の中にまだ発揮されていない能力が眠っていて、それを呼び覚ますための方法論を探ろうとしています。たとえば、初めて逆上がりができたときのことを思い出してください。このとき、急に筋力がアップしたわけではないですよね。そうではなくて、コツをつかんだから突然できるようになったのでしょう。これは、脳が身体をどう動かせばいいのか最適に指令を出せるようになった、ということにほかなりません。

野球が趣味だからこそ、研究にのめり込める

—今回、対象とするスポーツの一つは野球ということですが、それはどういう理由からですか?
  研究対象として野球を選んだのは、研究する際の難しさがちょうどいいからです。ラグビーやサッカーみたいに敵味方入り乱れてずっとプレーが続いていくようなものと違って、ピッチャーが決まった位置で止まった状態から動き始めるため、計測や解析がしやすいのです。そのほかに、ゴルフ、自転車、歩行なども研究対象としています。もっともこの研究で得られた知見は、特定のスポーツの枠を超えて一般化できる部分もありますし、ダンスやリハビリテーション、さらには音楽の演奏といった身体のさまざまな動かし方にも応用できると考えています。でも野球を選んだ本当の理由は、自分が好きだからなんですけどね(笑)。

—ご自身も野球をやっていらっしゃるのですよね。
  若い頃に部活動などで野球をしていたわけではないのですが、40代半ばだった6~7年ほど前から、昼休みにキャッチボールをするようになりました。それがだんだんハマってきて、投球フォームを分解写真や動画なんかで研究するようになって。今では、このプロジェクトがきっかけとなり、元読売巨人軍の桑田真澄さんたちと草野球チーム「Tokyo 18’s(エイティーンズ)」でプレーするなど、趣味と実益を兼ねて、楽しみながら研究しています。

ICTを活用して、脳と身体の反応を包括的に捉える

—研究の具体的なアプローチについて教えてください。
  研究をスタートさせた2014年から約5年をめどに、ICTを最大限に活用して、スポーツに関わる潜在脳機能を解明し、その知見に基づいたスポーツ上達支援法を開発したい、というのが我々の研究の狙いです。

  研究のステップとしては、三つあります。第1のステップは、スポーツ中に、個々の選手やチームにおいて、脳と身体で起きていることを包括的に捉えます。計測の対象となるのは、心電位、筋電位、呼吸、脳波、身体各部の加速度、眼球運動などで、これらを包括的に捉え、それらの関係性を分析することによって、「潜在脳機能」のプロセスを推定することができると考えています。しかも、こうした情報を選手の動きの邪魔にならないように、無拘束かつ非侵襲に計測しようとしています。ここでは、身体に装着できて、さまざまな生体情報を取得できる最先端のウェアラブルセンサが欠かせません。

  そして第2のステップでは、包括的な情報からパフォーマンスの向上につながるようなエッセンスを抽出します。たとえば、スポーツ時の脳の活動パターンが、初級者、中級者、上級者ではどう違っているのか、さらに上級者の中でも、日本一と世界一のアスリートでは何がどう違うのか、ということを探ろうとしています。ここで役立つのが、近年、実環境データの解析で成果を上げている機械学習の技術です。「データに語らせる」というデータドリブンな手法と、実験室型の仮説検証型の手法を組み合わせて、優れたパフォーマンスの背後にある脳の働きを解明します。

  第3のステップとして、パフォーマンスを最大化するために、アスリートへフィードバックする手法を探ります。ただし、フィードバックの対象は潜在脳機能の領域であり、自覚できないわけですから、いくら言葉や論理を使って頭で理解したところでどうにもなりません。その一つの手法として開発を進めているのが、「感覚フィードバック」です。たとえば、タイミングやリズムをアシストするような音(聴覚)によるフィードバックや、触覚などの体性感覚によるフィードバックなどが考えられます。身体の各部位にセンサをつけておいて、その動きに対応した音を鳴らしてやると、各人によって音の出るタイミングや音色が変わってきます。それをリアルタイムでプレーヤーにフィードバックすることで、どのタイミングでどの部位をどう動かせばいいのかを直感的に知らせるのです。

コーチする服や部屋が、スポーツの常識を変える

—成果のイメージは、どのようなものになるのでしょうか?
  いわゆる、マルチメディア教材のようなものもあるでしょうし、さらに一歩進めて、「コーチをする服」や「コーチをする部屋」というものをつくることができたらと考えています。たとえば、スマートスーツを着て部屋に入ると、瞬時に心身の状態を計測して、今日の調子を教えてくれたり、今日の状態に応じた最適なトレーニングメニューを提示してくれたりするわけです。さらには、過去のデータや他の人のデータと比較して的確にアドバイスするなど、服や部屋を有能なパーソナルコーチとして機能させるとこまでいけるといいですね。

  これまで、科学とスポーツの現場というのは、かなりかけ離れていたように思うんですね。スポーツの現場からすれば、科学など当てにならないと思われていたでしょうし、科学者側から見れば、スポーツ界は経験に頼りすぎていて、もっとシステマティックなやり方があるはずだと考えてきた。その両者の溝を、これまでシステマティックなトレーニングが難しかった領域、コツの習得やメンタルの制御などにおいて理にかなった早道を提示することで、埋めることができたらと考えています。
取材・執筆 : 田井中 麻都佳
編集:ふるえ編集部
Sports Brain Science Project http://sports-brain.ilab.ntt.co.jp/

柏野 牧夫
柏野 牧夫

1964年岡山生まれ。1989年、東京大学大学院修士課程修了。博士(心理学)。現在、日本電信電話株式会社コミュニケーション科学基礎研究所上席特別研究員・人間情報研究部長、東京工業大学大学院総合理工学研究科連携教授。専門は心理物理学・認知神経科学。著書に『音のイリュージョン』(岩波書店、2010年)、『空耳の科学』(ヤマハミュージックメディア、2012年)他。