人はなぜゲームに魅了されるのか?ゲームという小宇宙が生み出す引力
多くの人々が夢中になって遊ぶさまざまなゲーム。そんなゲームの魅力とはどこで生まれるものなのか。ゲームとプレイヤーとの関係をさまざまな角度から追究し、「ぷよぷよ」を始め、数多くの作品を生み出してきた、ゲームクリエイターの米光一成さんに寄稿していただきました。
米光 一成
米光 一成

ゲーム作家・ライター・デジタルハリウッド大学客員教授。
1964年生まれ。『ぷよぷよ』『バロック』『想像と言葉』などゲーム監督・脚本・企画を数多く手がける。池袋コミュニティ・カレッジ「表現道場」の道場主。Twitter @yonemitsu

「ぷよぷよ」では「テトリス」の正反対を目指した

  テトリミノが落ちてくる「テトリス」というゲームが登場して衝撃を受けた。それが「ぷよぷよ」というゲームを企画監督した一番の要因だ。当時は、コンピュータの容量が増え、技術が向上したことによって、表現できることが増えてきた。色数が増え、出せるキャラクターも増えた。世界を巨大に複雑に表現できるようになってきた。そんなときにシンプルな「テトリス」がめっぽう面白かった。 ゲームというのはシンプルでも面白いんだと改めて教えられた。その後「コラムス」が登場して落ちものパズルゲームというジャンルが確立し、上司からの「テトリスみたいなゲームを作れ」という命が下る。
   「テトリス」の二番煎じになるのは嫌だったので「テトリス」を要素分解して連想するワードをどんどん書き出してみた。ワード群を眺めていて、それらが「ソリッド」というテーマで射抜かれていることに気づいた。テトリスの「ソリッド」なところが面白さのキーだ、と。「ソリッド」というキーを、正反対の「ソフト」にしてみようと考える。すると書き出したワードすべてを、どんどん変えざるを得なくなる。「ソフト」というコンセプトに変えたことによって、オセロの終盤みたいに一気にたくさんの要素が反転していく。
  たとえば「テトリス」は、キャラクターが出てこないソリッドさを持つ。ソフトにするなら、陽気に楽しく喋るキャラクターを出そう。プレイヤーが操作するのもソリッドなブロックだ。ならば、やわらかいぷよぷよしたものを降らせよう。ひとりでプレイする「テトリス」のソリッド感も、人間というソフトな対戦相手とプレイするものにしよう。一段埋まると消えるというソリッドな仕組みも、ソフトにするなら、形で繋がるのではなくて色でくっついてぐねぐねと繋がっていくようにしよう。
  それまでの落ちゲーが、ソリッドな感触だったのをソフトに反転することで、ゲーム性やルールも変えていこうという発想だ。

テトリスとぷよぷよの連想ワード
ぷよぷよでは、テトリスから連想するものと正反対のワードを採用した。


  ゲームはひとつの小宇宙だから、ルール、インタラクションの仕組み、世界観、それらがピタっとコンセプトで統一されているとゲームが引き締まる。
  ただ、降ってくるぷよぷよがあんまり柔らかすぎるとプレイを妨害してしまう。着地してぷよぷよと揺れるのはゲームルールには直接関係ない。あくまでも演出だ。それを過剰に揺らしてしまうと邪魔になる。どれぐらいの時間、どういうふうに揺れるかは、世界観や見た目の気持ちよさだけじゃなくて、インタラクションの仕組みと連動している。そこがゲームづくりの特徴だろう。
  着地したぷよぷよが揺れていると、プレイヤーはついそちらを見てしまう。ゲーム的には画面上部の次に降ってくるぷよぷよを見なければならない。だから注意を逸らさないように、そんなに長くぷよぷよさせないほうがいい。ぷよぷよしてるアニメーションの気持ちよさと、プレイに参加させるために視線をどう誘導するか。そのふたつが相反する場合がある。そこを上手く調整しなければならない。

コンピュータゲームでは難しい「ババ抜き」の再現

     「機能美」という言葉がある。機能を追求した結果、現れる美しさだ。それはゲームでも同じだ。システムをどのように可視化するか。それが究極までシンクロすることで美が生まれる。コンピュータゲームで、柔らかい身体性を機能美のレベルとして表現するのはまだまだ難しい。
  たとえばトランプゲームで考えるとわかりやすい。ババ抜きを、コンピュータとの対戦ゲームに移植するのはたいへんだ。たとえばトランプを扇状に拡げたときにジョーカーだけちょこんと出して取らせようとする。相手も、そういう手だなと気づいて、別のカードを取る。ということを読んで、ぴょこんと飛び出たカードの隣のカードがジョーカーだった、とか。そういったことを表現するためには、たくさんの演出と行程が必要になる。そもそも、カードを扇状に広げるときにぴょこんと一枚だけ飛び出すといった繊細な行動をどう実現するか。マウスやコントローラーでカードを扇状に並べるのは一苦労だから、ふつうは自動で扇状に開く。すると、ぴょこんと飛び出させるみたいなところが削れてしまう。「カードを選んでぴょこんと飛び出すボタンを押す」といったことを加えなきゃいけなくなる。それでは、飛び出させることを意識させちゃうので「あの人はクセで自分でも気づかぬうちにジョーカーをちょっと飛び出させるな」っていうような部分は消えてしまう。
  ジョーカーを引いてポーカーフェイスにしているのか、わーって思わず叫んじゃうのか、そういったことを表現しようとすると、ノンプレイヤーキャラクターの設定がものすごくたいへんで、人間の性格を作り上げるような作業になってしまう。
  そこまでいかなくても、たとえば花札をプレイして場に出すとき。パシッと札を出すときの効果音をどうするか。勝負のカードを出すときは、ふつうのパシッじゃなくて、バシィィッ!って鳴ってほしい。画面を光らせたりしたい。現実の空間で、現実の札を使って人間がプレイすると、絶妙に表現される。それをコンピュータで再現しようとすると、めちゃくちゃたいへんだ。

非現実的なルールが人をゲームに引き寄せる

  ぼくが企画した最新のゲームはアナログゲームだ。タイトルは「はぁって言うゲーム」。最大8人で遊べるゲームで、チケットをちぎって、ひとりに1枚渡す。チケットには、A なんで?の「はぁ」/B 力をためる「はぁ」/C ぼうぜんの「はぁ」/D 感心の「はぁ」/E いかりの「はぁ」/F とぼけの「はぁ」/G 驚きの「はぁ」/H 失恋の「はぁ」、と書いてある。どれかひとつだけ太字になっていて、それが自分の演じる課題だ。親から順番に、自分の課題を「はぁ」って声と顔の表情だけで演じる。聞いている側は、なんの「はぁ」かを推理してA~Hのどれかをメモする。最後に、誰がどの「はぁ」をやったのか開けていき、当ててもらった人数と当てた数の合計が多かった人が勝者になる。というゲームだ。

はぁって言うゲーム
カードに書かれたいろいろな「はぁ」を、声と表情のみで表現する。


  「はぁ?」「はぁー」「はぁ!」「はぁぁ」と、つぎつぎといろんな「はぁ」をやるだけで爆笑の場が生まれる。ルールがあると、ふだんやらないようなことをやってしまう。バリエーションで「好きって 言うゲーム」「んーって言うゲーム」「ぷーって言うゲーム」「笑みのゲーム」があって、「好き」をプレイすると、もういろんな人がいろんな「好き」の言い方を披露することになる。飲み屋でやってると、「好き」「好き!」「好き?」と言い合うことになって、変なことやって盛り上がってる集団だ。
  しっかりとしたコンセプトで、ルールと、仕組みと、世界がパッケージングされていると、それはゲームと認識される。そしてゲームに参加すると、それがいかにバカバカしかろうが生産性がなかろうが「楽しみ」に変換される。というよりも、バカバカしいがゆえに生産性がないがゆえに「楽しみ」になるのだ。そこは、現実の階級や格差や、曖昧で理不尽なルールが消失した明確なルールの小宇宙だ。
  これが現実世界の生産性に直接的に関わってくると、あっという間に楽しみが消える。ゴルフは楽しいのに、接待ゴルフも接待の度が超えると仕事と変わらなくなってしまうのはこのためだし、現実世界にゲーム的な楽しみを取り入れようとするゲーミフィケーションが抱える困難も、そこにある。
  現実世界のルールをいったん切り離すことによって、ゲームはプレイヤーを軽やかな別のルール世界に没入させる。